こうでもしないと、泣いてしまうんじゃないかと思ったんだ。
声だけ辿るみたいにきみは固く目を閉じるから。
ベッドに腰掛けて、リンは不機嫌そうに長くなった髪を梳いた。
布団を頭から足先までかぶっている、一瞥しただけでは中身が人だとは解らない様な塊をちらと見る。
憎い。
いや違うかも知れない。
憎たらしい。
この方がしっくりくる。
何も知らないのか、いやきっと全てを知っている。
なのに、この布団の塊は笑顔でまだ側を離れないのだ。
そればかりか今では距離をはかることすら難しい程に側にいる。
この何年かで、髪が伸びた。背も比べものにならない位に伸びたはずだ。
しかし、リンの頭を支配するものは結局変わってはいなかった。
忘れてはいけないことがいくつも、彼の記憶には存在している。その記憶は香りやかすれそうな影のように消えやすく、ともすれば引き出しの片隅で気付かれない内に呼吸を止めてしまうだろう。
過去のリンは、そんな小さな、ささいな全ての記憶に引き摺られてやっと生きていた。
そして、宝物であるかの様に、記憶を大事に守りながら。
「……あれ…、リン、ねない、の 」
膝についていた肘が、背後からの声にがくりと落ちた。
もぞもぞと布団が動く音がする。
「あ、うん。もう寝るよ。」
布団から現れた、寝癖がついた短い髪。
何年経っても、それは変わることがない。
「ねえケイスケ。」
振り向いて呼びかければ、眠そうながらもあぐらをかいたケイスケが笑う。
声を出さずに眉と口角を上げるのが彼の返事の代わりであることは、二人だけの時間が始まって長い今では解りきっていることだ。
「俺はうそつきだよ。」
ベッドに入る前にあけた缶ビールが空気に押されて乾いた音を立てる。
リンの言葉に頷くように。
それは他でもないリン本人が肯定の答えを求めているから。
時計の無いこの部屋では、この沈黙を追い立てるものは何も無い。
「そう。」
「そうだよ。」
空き缶を手に取ってみると、意外な軽さに手の力が空回った。
飲みきれなかったビールの香りがぷんと漂う。
音が無い分、香りは強く強く室内に漂っている。
こんなときの沈黙は、宝であり秘密である。
ここでケイスケが何か庇うような言葉を言えば、可愛らしい恋人同士のちょっとした美談にもなり得るのだけれど、彼はそれをしなかった。
リンの、答えを誘うような言葉が、ビールの香りを拭って甘く漂う。
さあ疑って。
さあきつく答えで甘く縛って。
そう言って漂う。
「じゃあどうしようか。」
寝惚けている風ではない。
それは返答の内容から窺い知れた。
いつでもケイスケは、切り出した話の結末を誘導もしなければ、先を強請ったりしないのだ。
良く言えばリンのそのままを受け容れる。
悪く言えば興味が無いように思わせる。
「俺が、じゃなくて、リンはどうしようか。」
仕事で焼けた手が、リンの頬に少し触れてから肩を撫ぜた。
最中に腕に爪を立てる癖をリンがやめないせいで、腕には無数の赤が散る。
少し爪を伸び気味に切り揃えるのはこのために。
不安で仕方がない自分を慰めるために。
解り易い印ではなく、わざと痛々しい爪痕はそのために。
不安を全て拭うような、そしてまたいつも通りに答えをリンが探すような返事は今求めていたものとは違う。
そんなことはケイスケ自身も解っていること。
だからこそ笑顔を解かない。
だからこそ爪を立てて縋ることを咎めない。
「違うだろ!」
じっと見詰める茶色の瞳をきつく睨んで、リンが声を荒げた。
掴んでいた缶ビールは床に叩きつけられて、ぐしゃりと歪む。香りはまた強くなる。
望まないものなどいらなくて。
欲しくない答えなら拒絶する。
「嫌いだって言えよ!」
立ち上がってフローリングの冷たい床に足を踏ん張る。指がぐっと縮こまる。
空気は冷たいけれど、頭が熱いせいで言葉は切れ切れにしか浮かばなかった。
言いたいことがたくさんあることは知っている。
言えば思った通りの世界が待っていることも知っている。
それでも今まで言えずにいたのは、ただぬるま湯のように暖かいここから抜け出すことが躊躇われたからそれだけ。
それだけ。
「俺は、お前を望んでなんかいない。」
「今まで一度だって、お前のことを見はしなかったんだよ。」
ケイスケの笑顔はまだ解かれない。
「知ってるよ、そんなこと。」
笑顔のかたちを崩さないように口を開いた。
まるでこの表情を崩してしまえば、家ごと全部壊れてしまうとでもいうように。
用心深く、小さく口を開いて言った。
「そんなことはどうでもいいんだ。」
元通りに口を閉ざして、目を細める。
ビールは割れた缶の隙間から泡をもらすだけで、もうあの匂いは揮発して消えてしまった。
恨みの詰まった目を望んでいた。
リンが憎いと、今まで築いた全てを返せと恨む目を。
見返りを欲する汚らしいあの恋と呼ばれる感情さえ見せてくれれば、リンのこころは満たされ、笑顔でうそだよと伝えてごまかすことができたのだ。
だいすきだよと。
また笑顔で。
手を繋いでいるように見せかけて、実はずっとずっと遠くにいるのを悟らせずに。
だいすきだよ、と。
「いいんだ。」
「俺はいいんだ。俺は。」
「リンの側にいられるなら、全部、見ないふりをするよ。」
静かにベッドから立ち上がり、形を変えた缶を拾い上げてキッチンへ姿を隠した。
これ以上の問いを拒むように、笑みは崩されることなく。
ケイスケは答えを強請らない。
ケイスケは、自分の望む答えにリンを誘導したりしない。
それは、どうしてだったのか。
理由などなく、ただ自分を好いているからだとリンは鷹を括っていた。それ以上を考えているはずなどないと。
考えることなどできないと。
見下していたというよりも哀れんでいた。
自分などをすきになってしまったことに同情していた。
誰より怯えていたのに。
それを悟らせることなく。
毎日笑顔で鬱陶しいくらい近くにいた。
シンクに、飲み残されて、更には床にも零れそびれたビールがたたた、と当たって音を立てる。
几帳面なケイスケらしい。
飲み残しをサイドテーブルに置き放しにするリンをいつも叱る。
まるで子供に言い聞かせるみたいに優しく。
ばかなことを。子供は一体どちらだと思っているんだ。
知っていた。
体重をかけて、リンをきつく抱き締めるそのとき、ケイスケは闇に漂う。
名を呼べば、その鈴音を闇に落とされた一筋の光を探すかの様に追いかける。
出かければ、いってらっしゃいよりも先に何時に帰ってくるのかと眉尻を下げて問う。
帰ってくれば、おかえりよりも先にどこへ行っていたのかと問う。
けれど、肝心なところは何一つ詮索しない。
過去も、現在も、未来も、なくしたものも。
言いたくないなら言わないでいいなどと、押し付けるようなプレッシャーすらかけない。
笑顔で。
欲する気持ちを全部まるめて、リンの過去よりもずっと奥であろう引き出しに詰め込む。
この感情は。
シンクにもう空になった缶を傾け続けるケイスケの背中に、暖かい重みと衝撃が走った。
蛇口からはいまいち勢いに欠ける水が流れ続ける。
「わ、リン。どうしたの。」
しがみついて、腕に力をぎゅうと込める。
いつ羽織ったのか解らないシャツに皺が寄る。
額を肩甲骨の間に押し付けると、典型的な石鹸の匂いが香った。
ビールはもう香りない水に押されて流れてしまったから、今の頼りはこの石鹸の匂いだけ。
「あいしてる。」
泣かないで。
愛するものをもう間違えないように、深く息を吸い込んだ。
過去も現在も未来も全部、あげるべきはきみにだったんだ。
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((かおでわらってこころでもわらう。かわいそうなのは自分だけだと思ってたんだ。))